LOGINそれから二週間ほどが過ぎ、朝晩にほんの少し肌寒さを感じるようになり、本格的な葡萄の収穫期が訪れていた。リスルは目覚めると、着替えのためにモーブピンクの寝巻きの袖を引っ張って腕を抜く。クレープ素材特有の皺が大きく引き伸ばされた。
リスルは寝巻きから引き抜かれた柔らかな曲線を描く娘らしい身体にワインと同じこっくりとした色のチュニックを被る。朱色や黄土色、藍色などで全体に施された刺繍は秋の野に咲く小さな花々を思い起こさせた。 緩やかな癖のある髪にさっとブラシを通し、革紐で適当に一つに纏めて結い上げるとリスルは自室を出た。階段を降りていくと、玄関先でラルゴが何者かと押し問答しているのが視界に飛び込んできた。 「この家にリスルという娘がいるはずだ。中を検めさせろ」 「うちには娘なんていない。迷惑だ、帰ってくれ」 柄の悪い男たちとラルゴのやりとりを耳にしたリスルは事態を察した。覚悟はしていたその日が来てしまったのだという事実を唇と一緒に彼女は噛み締めた。 教会の刻印が入った白銀のプレートアーマーを纏った男たちがラルゴを無理矢理押しのけてでも家の中へ押し入ろうとし始めたのを見、腹を括って彼女がその場に割って入ろうとすると、アリエがそれを押し留めた。 「リスル……駄目よ、上にいて。絶対に姿を見せないで」 いつもおっとりとしている彼女には珍しく、その顔には絶望と混乱が浮かんでいた。しかし、娘と同じ色の双眸には強い意志の色が浮かんでいる。 「母さん……」 神聖騎士団の人間が訪ねてきてしまったことで、町で噂になっていたあの話がアリエの耳に入ってしまったことをリスルは悟った。 「ごめんね、リスル。あなたのことをこんなふうに産んでしまって。どうかお願い……許してね」 アリエは泣きそうになりながら、淡く微笑み、踵を返す。 「ちょっと待って、母さん! ねえ……母さん!」 リスルの引き止めようとする声を無視して、アリエは彼女の傍を離れていく。そして、娘とよく似たその姿を玄関先に現した。 お前がリスル・フレンツァか、聞いていたより随分と年増だななどと、アリエの姿を認めた男たちが何事か言っているのが聞こえた。そして、彼らはラルゴへと向き直ると拳を振り上げた。鈍い音が響く。 「……父さん……」 リスルのふりをしたアリエを守ろうとしたことで、ラルゴが神聖騎士団の僧兵に殴られていた。たまらなく胸が痛くなって、彼女が死角になっている階段の踊り場から飛び出そうとすると、服の袖口を引っ張られた。彼女が振り返ると、不安そうな顔の蜂蜜色の髪の少年がそこにいた。 「姉さん……駄目だよ、行かないで」 「カロン……いい子だから部屋にいて。これはあなたが見ていいものじゃない。大丈夫よ、カロンのことも、父さんや母さんたちもわたしがちゃんと守るから」 腕に縋り付いてくるカロンをそっと引き剥がし、リスルは彼へと噛んで含めるようにそう言い聞かせる。しかし、彼は嫌々するようにかぶりを振ると、 「でも……そしたら、姉さんはどうなるの? あいつらに連れていかれちゃうんでしょう? そんなの、駄目だよ……!」 「心配しないで。わたしはちゃんと戻ってくるから。約束するわ」 「……姉さんの、嘘つき……」 カロンがそう喉の奥から漏らした言葉は涙で湿っていた。心がひどくずきずきとするのを感じる。もう自分がこの家にきっと戻ってこられることはないとリスルにはわかっていた。決して守ることのできない言葉を嘘つきと謗られるのは当然のことで、リスルにはそれを黙って受け入れることしかできなかった。 カロンの啜り泣く声を聴覚の隅で聞きながら、リスルは階段を駆け降りた。彼女は両親と男たちの間に割って入る。 「わたしがリスル・フレンツァよ。わたしの家族に手を出さないで」 再度、ラルゴに振り下ろされかけていた拳がリスルの左頬に当たる。重たい音が耳元で響くのを彼女は聞いた。口の中を切ってしまったのか、鉄錆のような味が広がっていく。 「貴様がリスル・フレンツァか。最初から大人しく出てきていればいいものを手間取らせやがって」 男たちの一人がそう吐き捨てながら、胸元から書状を取り出し、リスルへと突きつける。 「リスル・フレンツァ。悪魔の祝福の下、その力を以って世界へ混乱を齎した咎で貴様を拘束する」 書状を持った男がリスルを顎でしゃくると、彼の傍に控えていた見るからに荒くれ者といった風情の男たちが縄で彼女の身体を容赦なく縛り上げた。 「ごめんね、父さん、母さん。カロンをお願いね。今までありがとう……さよなら」 リスルは柔らかい視線を両親に向けると、微笑を浮かべてそう言った。 「ぐずぐずするな、とっとと歩け!」 リスルの身体を戒める縄が力任せに引っ張られ、背中が蹴られた。衝撃で傾いだその体が強く地面に打ち付けられ、砂埃が舞う。擦りむいた額から滲み出した赤い液体がぽたぽたと落ちる。彼女の状態など省みることもなく、男たちはそのままリスルの身体を荷物か何かのように引きずって連行していく。進んだ距離に比例するかのように、すらりと伸びた手足に浮かぶ痣や傷は数を増していき、身に纏ったボルドーのチュニックワンピースは汚れてずたずたになっていった。 「リスル……!」 男たちによってぼろぼろにされながら遠ざかっていく娘の名を叫び、ラルゴとアリエはその場に崩れ落ちた。真っ赤に染まった夕方の空が高い位置にある味気のない窓から一日の終わりを知らせていた。窓枠に嵌められた鉄格子の外の世界が闇に沈んで夜になれば、聖典の記述を根拠にリスルは殺される。
礼拝堂へ連行されたリスルは、ジーク司教から通り一遍の尋問を受けた。しかし、彼はそれだけでは飽き足らず、若い娘であるリスルの体から全ての衣服を剥ぎ取り、彼女を視線でねっとりと舐りながら鞭で打った。一糸まとわぬ姿にされた彼女は腕で自分の身体を抱きながら、心と身体に浴びせられる謂れのない暴力と間接的な凌辱行為に耐えるしかなかった。レシェールから視察という名目でやってきた神聖騎士団の荒くれ者の男たちは、にやにやと下卑た笑みを浮かべ、時にはあはあと気持ち悪く呼吸を荒らげながら、視姦するようにその光景を眺めていた。太陽が南の高い空に昇る刻限まで、屈辱的なその仕打ちは続けられた。 全身を腫れ上がらせたリスルは、陰気な目をした司教から解放されるとともに、あるだけましといったような粗末な衣服を与えられた。汚い麻袋に頭と手足を出す穴が開いているだけのものだったが、値踏みするように彼女の肢体に視線を這わせてくる男たちがおぞましくて、痛む体にそれを纏った。 リスルは神聖騎士団の僧兵たちに連れられ、先ほどまでいた拷問部屋から半地下の牢へと移された。この後の処遇が決まるまでここにいろということだった。いかにも粗暴そうな連中なのに、ご丁寧にも手枷と足枷と口枷を嵌めた上で、きっちりと彼女の手足を柱に縄で縛り付けていった。 しばらくして、遥か頭上の窓から誰かが指示を飛ばす声が聞こえた。 「あの女は今夜、礼拝堂前の広場で処刑するとのことだ! そっちの三人は地面の掘削、残りの二人は木材二本と石の土台を用意してこい! 木材はそうだな、適当にその辺の木でも切り倒してこい!」 応、という返事と共に視察部隊の男たちがばらばらと動き出したらしい足音が響いた。 「あの司教様とやらは聖職者のくせになかなかの嗜虐趣味みてーだからな、あの女がどんな声で鳴くか楽しみだぜ」 「ああ、さっきもイイ顔してヨガってたもんなあ。あいつ感度良さそうだし、今度は公衆の面前でじわじわと嬲り殺しにされてどうなってくれるか……やっべえ想像しただけで何か滾ってきた。っていうか、顔も身体もまあまあ良かったし、殺す前にこっそり一発くらいヤッちまってもいいよな?」 「うっせえよ変態。しっかし悪魔の祝福を受けた異能者だっけか? あの女、ああやって悪魔とやらを誑かして変な力手に入れたんじゃねーの? ったく、迷惑な話だぜ」 「ちげーねえ」 シャベルで広場の地面を掘り返す単調な音の間から品性のない会話に興じる複数のやる気なさげな声が漏れ聞こえてきて、リスルは腫れ上がった顔を歪めた。こうして下品な言葉で辱められるのももちろん許せないが、謂れもない罪で殺されなければならないというのが悲しくて苦しかった。 聞こえてきた話によると、リスルは今夜、殺されるのだという。レシェールまで連れていかれるかと一縷の望みを抱いていたが、ジーク司教はどうやらリスルを処分することと目先の手柄を急いだようだった。土台を地中に埋め込んで、その上に柱を立てる――どうやら自分の死因は磔刑か火刑のどちらかになりそうだなと彼女は頭の隅の冷静な部分で考えていた。どうやら人間というのは恐怖に支配されると逆に冷静になる防衛本能があるようだった。 何処かで別の作業をしていたらしい男が重量のあるものを引き摺る音と共に広場へ戻ってきた。しばらく、何かごちゃごちゃと話しながら作業をしていたようだったが、気合を入れる声が響き、ずどんという鈍い音ともにリスルのいる牢が振動した。 リスルが伏し目がちに頭上の窓へと視線をやると、無慈悲な十字架が夕陽を背にそのシルエットを黒々と浮かび上がらせていた。あれがこの後、見世物とされる彼女が苦悶の声と共に最期を迎える予定の舞台だった。 聖典に書かれている悪魔なんてどこにもいないけれど、同様に教会が崇める神だってどこにもいない。謂れもない罪で死を強いるのが神ならば、いっそ存在しないでくれたほうがいい。 神様でも悪魔でもいいから、この世界にこれ以上、こんなくだらないことで罪もなく奪われる命がないようにとリスルは願った。夕闇が降りた牢の床にぽたぽたと雫が落ちた。足元で剥き出しになっている土の匂いが妙にはっきりと彼女の鼻腔をついた。 終わりかけた最後の時間に彼女が捧げた祈りは闇の中へ姿を消した。彼女の想像を超えて、悲劇は連鎖していくことをまだ誰も気づいてはいなかった。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?